射法全般

別章<上達する上で必要な教養と常識>【新時代の弓道】

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この射を見てどう思うでしょうか。

古流だろうと思うだけかもしれません。

想像してください。

ではこの射法を所属道場で誰かが行っていたらどう思うだろうか。

口割じゃないとか、素手だとか十文字がどうとか、いろいろと思うでしょう。非常に残念なことですが「正射を勉強しろ」と喝を入れたりする人も出てきますよね。

ですがそれは我々が今普及している射型を「見慣れているから」に他ならないわけです。

決してこの射が「正しくない」わけではないことを理解して頂きたいと思います。もっといえば、この人物は抜群に的中力が高い射手として有名であり現代のだれも敵わないレベルの達人なわけです。

それでは正射とはいったい何なのか。ここから少し遠回りして話を進めてみたいと思います。

正射必中

正射必中は「正射であれば必ず的中する」という弓道人の中ではよく聞かれる言葉ですが、この言葉の如何について検討してみます。同じように、美についても正射ならば美しいとよく言われます。

正射必中については「どの大きさの的にどの距離で引けば必中するのか」は規定されていません。この場合はとりあえずどの距離であっても狙った場所に的中すると考えてもいいでしょう。

さて、正射必中が真であれば、この命題の対偶は「的中しなければそれは正射ではない」でありますからこの命題も真であることは疑いがありません。

正射は的中射に包含されていることを示しています。この論理と同様に美射の中に正射が包含されていることも導くことができます。

正射を規定する言葉はほかにも飛貫中がありますが、ここでも同様に飛翔速度の速い射が正射を包含し、貫通力のある射が正射を包含しています。

正射とは何か。この問いに対して、明確に答えられる人は多くありません。

上記で説明した包含関係こそが正射の条件なのでしょうか?

弓道教本には「自然体で規矩正しく・・・」といった説明が見られますが、それは固有名詞としての規範的な射のモデルであって、ここで扱う文字通りの意味での「正射」を定義しているものとは言い難いでしょう。

文字通りの意味とは、ここでは「正しい」という表現です。

「正しい」は「道理にかなっている、法にかなっている」という意味ですが、ほかにも正射を定義する包含関係は前述で洗ってみたところです。

例えば射が人間の筋および骨格のみで正否を判断できると規定してみますと、

この時、棒人間の関節と骨の位置および変化で正射を規定することができると言えるでしょうか。

考えなくともわかると思いますががそれは決めることができません。当然、前提要素が足りないからです。

しかし弓射においては、誰が、どのような状況で、どのような目的を持って、どの道具を用いているかによって最適な射は変化します。年齢や体格、時代背景によっても当然異なります。

このように前提条件が無数に存在する以上、客観的かつ普遍的な「正射」を規定することは極めて困難であると言わざるを得ません。

それだけならばまだましであったのですが、

最も的中する射が何なのかは分からないし、美しいかどうかもわからないのです(これに至っては美の概念自体が主観的で検証不能です)。最も早い矢が出る射も、貫通力のある射も、すべての射法の可能性を網羅しなければ確定できず、目的に沿った的確な実験と比較によってのみ「どうも確からしい(確率が高そうだ)」と言うことしかできないのです。(正しいということはできない。)

現在はその検証がされていない以上、正射というものは少なくとも現時点では明確に定義されていないと考えるのが前提であり教養なのです。

これは骨格に限らず、どういった射の眼目が正射かということも同様に考えられ、精神面から正射を規定することはできません。

詭弁に負かされる論理弱者を辞める方法

良い射 悪い射

我々は良い射と悪い射といったものを区別することは不可能です。

前提条件を完全に共有し、目的を一致させたとしてもその目的に適った答えがわからない状況ですから判断できません。

それを判断するためには考えられる全ての射法を振り分けた大規模な比較試験(メタ解析まであれば理想)を行うか、弓射に必要なすべての原子の情報を入力した∞通りの射形からもっとも的中しやすい射形(目的を設定したうえでそれを最も達成する射形)を検出するシュミレーターがあれば可能となるでしょう。しかし現状ではそこまでの研究は行われていません。

したがって、主観を完全に排した評価は現実的ではありません。(他種のスポーツ競技には詳しくないが、弓道に限らず根拠の強い研究がある競技種目は少ない。)

それなのに「マイ正射」なるものを持ち歩き、、自分の基準を他者に押し付けるのは問題があります。

「自然体は正しい」とか「左右対称だから」「無駄な動きだ」「この手の内が正しい」「大きく引いて大きく離すのが正しい」等を用いてしまう者も多くいます。

また、便利なのでという理由で行われていることも、「便利=正しい」と解釈しマイルールとして押し付ける場合も見受けられます。

便利さと正しさは必ずしも一致せず、体配についても、唯一の正解があるとは限りません。

さらに問題なのが、美の正当化です。美意識は経験や慣れに強く影響されることが多くの研究で明らかになっています。

すでに知っているものを見ているのは心地よいので、見たことあるものしか許容できなくなってしまい、美として正当化します。

もちろんそれはいままで見てきたものを「マイ美射」として持ち歩いているだけです。

手段である射は目的と切り離すことはできず「正しさ」は常に相対的であることは前提として知っておかなければならない教養なのです。

論理的な立場のあり方とは

正しいという幻影は権力に依存して存在します。本来ならば目的と相対的な手段でしかないものです。

権力は「多数決」であったり、「たったひとりの勝利を得た射手」だったり様々ですが

通常「確からしさ;正しそうな感じ」を議論する上で多数決は正しさとは何の関係もなく、「検証数=1」のマイ正射はさらに論外で、衆愚の危険性も孕むものであり組織として掲げてはなりません。

マイ正射は他人に対して正しさを説くことは不可能です。

これを承知した上で押し付けることなく自由にマイ正射を追求することは非難の余地はなく、多様性として受け入れられます。

 

忘れてはならないことは、常識だと思っている三重十文字や五重十文字ももちろん正しさを表すものではないし

立って射ること自体正しくないかもしれないということです。(事実、射撃の世界では座ったほうが的中するのは常識です。)

そのほかにも角見、矢束をとる、口割り、胸を開く、など

現代弓道人の「マイ正射」を構成する要素は多くあります。(大離れ、口割に至っては最近の概念であるし、国際弓術的にも大離れや口割には当然こだわらない。)

では何が正しいかわからない中で何を練習すべきか。

それは自分の目的によって決めるしかありません。

その際、「より確からしい手段」を選ぶ必要がありますが、現状ではそれを裏付ける研究は十分ではありません。

そのため、流派や経験則が重要な指針となります。

流派は長年の蓄積に基づく体系であり、完全ではないものの有効な出発点です。

しかし流派が検証数数百程度の確からしさしか無くても、検証数=1の「マイ正射」を練習するよりは何百倍もマシなことです。

現代で最も回復すべきは失われてしまった目的と相対する流派の復活です。

ここにいる方々は詭弁や不適切な比喩に騙されることなく、集めてきたマイ正射という名の偏見を仕分けし

自分に向き合った上で自己に有利な流派等を選び取ってほしいと思っています。

アインシュタインの「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」という言葉は本当にその通りで、冒頭で問うた古流に対してどう思うかという問いの答えそのものです。

見慣れている印象とか、詭弁によって操作された印象をコレクションとして皆持っているのです。弓の場合は特に、正しさの根拠としてなんとなく「常識だから」ですませてしまっていることがほとんどです。

新時代の弓とは

現在の弓道は目標を真善美に限定して掲げているようでありますがこの点にも問題があると考えています。

スポーツ化された現在の弓道では高齢となれば不中もあると断った上で中高年までは真として的中を目標とされ

善や美として高段位者は弓道の真体?(主観的であり実体はない)に達することを求められます。

その判断材料として射型=形が求められてしまうと上記で述べたように合理性がなくなってしまいます。

見た目だけを審査をして人が人を客観的に測ろうということ自体に無理があるため、目標として破綻してしまいます。(人を人が審査することはそもそもバイアスが多過ぎて客観的評価は不可能であるという研究も多くあります。極論を言えば我々は日本人と外国人の射を見て平等に評価することはできません。)

そのため大義名分と実状が乖離してしまっているのが現状です。現在の段位制度では弓の練度を測ることはできていません。

これからは全年齢層の趣味として

あらゆる目的の多様性を許容する組織として

あらゆる目的を持った弓道人を寛容に受け入れる姿勢こそ新時代の和弓であると言えます。

流行りに乗ることが弓の目的に全く関係がないものである以上

流行りによる統一的判断はすべきではないと心得たいもの。

新時代の弓は個人である限り自由でなければなりません。存続させていく組織としてはまた別にしても弓を引く人のいろいろな目標を非難する理由は弓界の破壊につながることを除きどこにもありません。

権力とか、思想とか形に縛られず、個々人の目標を尊重する「統一できない伝統」としての弓の道を歩んでいきたい所存です。

 

本記事は補足的な意味を持った記事になります。

身に着けておくべき基本的な考え方をおさらいするという意味で別章としています。

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一章 上達の条件と誤解

三章構成で上手い人はどう考えて練習しているかを提示します。

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