弓具について 本多流

弓と禅の隠されたエピソード:オイゲン・ヘリゲル先生が遺した弓<阿波研造先生遺愛の弓の行方>【弓道】

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阿波先生と弓のエピソード

オイゲンヘリゲル先生は言うまでもなく、阿波研造先生に師事し弓道を修め、「弓と禅」を著し、海外では日本文化の紹介者として知られている偉人だ。

そして著書:弓と禅には日本での修行生活が終わり、帰国する際のことがこう書かれている。

別れではない別れが来た。

師は、そのもっとも愛蔵する弓一張りと、銘刀の一口を餞けとして贈った。

「あなたがこの弓で射る時には、達人の魂の再現を感じられるとおもう。この弓は、決して物数奇な人間の手に渡すことなく、この弓を引きこなし終わっても、記念として保存しておくようなことはせず、一塊の灰のほかは何も残らぬ様に葬られるように。」と。

この言葉からすると、阿波先生愛蔵の弓はこの世から無くなったように思えた。

しかし、ヘリゲル先生の帰国後約15年で、ドイツを取り巻く環境に少なくない変化があったことが影響してあることが起きる。

運命のいたずらか

1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し、ドイツ全土は連合軍の占領下に置かれた。

ヘリゲル先生のニュルンベルク付近の自宅は、突如アメリカ軍に接収され、阿波研造先生から贈られた弓、刀を含めた財が略奪されてしまうのである。

 

そのまま時は流れ、ヘリゲル先生は病のため息を引き取る。

その後ヘリゲル夫人;グスティ氏らが奔走し、弓はなんと無事のまま夫人の手元に戻ってきた。(ただし、刀のほうは戻らなかったようだ。)

そこで阿波先生の高弟、安沢先生と交流のあった夫人はヘリゲル先生の墓参りの際、安沢先生にこの弓のことを話す。その後、安沢先生が没して三年後、ヨーロッパ弓道連盟が安沢先生の命日に追悼射会を南フランスで行いたいと申し出があり、高門の北島氏、円覚寺の須原耕雲氏が出席した。

そして彼らはヘリゲル先生の高弟の教会でついに遺愛の弓に巡り合い、弓は夫人の意向により阿波先生の眠る日本の地に戻ることになった。

帰国後しばらくして、ヘリゲル先生、阿波先生、安沢先生の三人の追善供養がなされた後、須原港雲氏がこの弓は円覚寺に納めたいと決意し、円覚寺内に弓道場を建設し安置することとなった。

そのことを知らされたグスティ夫人は以下のように書いている。

「あなたが夫の弓を、円覚寺に永遠に献納しようとしていらっしゃることに、私は深い感謝の意を表したく存じます。夫の弓が円覚寺に安置されることは、私はもとより、夫にとりましてもその意味深さは計り知れない程でございます。それは、夫の全生涯、全人生に、弓というものが偉大な影響を与えたことは、あなたにも十分ご承知のことであります。」そして「夫と私はともに、弓の運命に結ばれて、全く新しい生命を得ました。」

グスティ夫人は、ヘリゲル先生の弓即ち禅として禅の道に傾倒していたことも、日本の禅における円覚寺の締める重要性も十分に理解しておられたのだ。

 

非常に前置きが長くなってしまったが、このようにして阿波先生の弓は円覚寺に今でも飾られている。

円覚寺訪問

そこで私は実際に知人の紹介で神奈川県鎌倉市、円覚寺に足を延ばした。

円覚寺内の弓道場に行くと、射場に彼の弓が飾ってあった。感動で言葉が出ない。太く、力強く、気品漂う弓だ。

手に取らなくとも、並外れた強弓であることが分かる。この年代の弓がこれほど綺麗な状態で保存されていることは奇跡に他ならない。運命のいたずらに感謝せざるをえなかった。

なぜ弓が二張りあるのかと言うと、ドイツのヘリゲル先生の高門、ロートガンゲル牧師の手元にあったヘリゲル先生常用の弓を遺志として同弓道場に安置保存されることになったそうだ。

私にはどちらがどちらの弓かはわからなかった。弓には銘もないそうで、二張りとも漆塗り弓。

成りから作者を推定することはかなり難しそうだ。

想像は膨らむものの、長居するわけにもいかず名残惜しくも道場を後にした。

ちなみにだが、弓道場は非常に美しく、禅的景観を備えている。日本の弓道場の中でも特別な道場だ。

一般公開はしていないようで入ることはできない様だった。残念だがいつかこの美しい道場で引いてみたいものである。

参考:射聖阿波研造ー天地大自然の代言者

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