弓道教本には「射の眼目は自然を体現することである。」とあるが、何をもってして自然というのだろうか。自然の対となる概念として何を想定しているのだろうか。
他の内容から推するに、おおむね「人工的」とか「作為的」等を思わせる。
さて、それでは弓を引き矢を飛ばす、という動作において自然と不自然の境界はいったいどこにあろうか?
それは各々の「マイ自然」である。
弓矢は人工物であるし、作為的に矢を対象物に飛ばしている。
その行いや道具作成についても包含した人間の行為すべてを自然とみなすのであれば、ことさら自然を意識することなんて必要なかろう。全てが自然なのだから。
それでも苦し紛れの「十文字の構えが自然で強いのだ」という者がいるかもしれない。
しかしそれは何が自然なのかの説明にはならない。全ての生物が十文字でなければならないとでも言うのだろうか。
少し外に出ただけでわかる。草木や虫は十文字ではない。
もっと言えば、弓も矢も標的の距離によって向きが変わってくる。
しかも、現代の技術は自然に追いついてきており、十文字が一番強い構造であるとは言っていない。
構造最適化技術(およびトポロジー研究)によって構造はどんどん幾何学的なものから有機的な形に変形し、従来の工業製品よりも強度が強い上に質量も軽い網目のような構造が生み出されてきている。
ほかにも自然には「本来備わっている物の性」という解釈もある。
いささか解釈に無理があるが一応議論しておこう。
弓矢については「本来」という言葉通りならばただの竹なのだから、飛んでいったり弦を張ったりすることは本来のものではない。
そもそもねじ曲げてはいけないだろうし竹林に分け入って竹を刈り取ることは自然に反することにはならないのだろうか。
百歩譲って弓の持っている物としての性だとしても、弓がどう矢を飛ばしたいかなど作者さえ知らないだろうに。
結局のところ、我々は自分の都合のいいように「マイ自然」を用いているに過ぎない。
あなたのマイ自然は、人には伝わらない。
あなたの中で胸の力を抜いて引くことが自然というなら、胸の力を抜けと素直に言わなければ伝わらない。
耳障りのよさだけで自然という言葉を使ってはならない。